Column of 太宰治原作「女生徒・1936」

私の青空・終戦63」監督ノート/福間雄三

映画は二人のインタビューで構成されている。終戦を何歳で迎えたか、二歳の違いでも大きいという福寿さんの話があったことから、そうだ、赤井さんが二歳違うことに思いあたる。しかし、私の中では違いよりも、二人の共通性が浮かびあがってきた。それは、たとえば、二人は共に、「ひねくれもの」と、よく言われていたことを知る。赤井さん的には、懐疑派、懐疑派世代と言う。それは少なからず、墨塗り教科書を体験した世代によるとも話す。共通性が見えてきたことで、さらに、注意深く聞き取ると違いも見えてくる。墨塗り教科書で、小学校四年生の福寿さんは、墨を塗られたところに何が書かれていたのか分からなかったという。また、終戦の日、敗戦の年を昭和20年8月を10歳で迎えたという体験に徹底的にこだわり続けていることだ。赤井さんは12歳で迎えるが、その12歳であることよりも、父親のこと、母親のことが気懸かりだった。終戦の日には憔悴しきった母親の顔に微かな希望と安堵の表情を読み取っている。福寿「考えていないような現実が沸き上がってくる63年目じやないかという怖さがある」

終戦63

 2008年の5月だったと思う。福寿さんと話ながら、今年はどうも違うと言う。終戦何年とか、いつも思っていないが、今年はどうも違う年で特別な気がすると。「今年は平成の20年目でもあって、1968年からは40年にあたる年になる。何かあるかもしれない。」と応え、今年が終戦63年目ということで、タイトルを決める。

私の青空

 そのタイトルの前に、「私の青空」とつけて、「私の青空・終戦63」とした。それは終戦の8月15日が青空と繋がるイメージであるとともに、「私の」ということで、二人の「私情」「誰れものでもない自分だけの真実」を語ってもらうことで、私の青空が映画になっていくことを願った。映画の中には終戦63年目の青空も登場するのだが、私の願った「私の青空」も、しっかりと語られていると思う。

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懐疑派・赤井成一 75歳
1933年(昭8)海老名市生まれ。大学時代に、ジョン・フォードの西部劇を初め、年間268本の映画を見るなど、根っからの映画ファンである。卒業後は神奈川県に勤め、要職に就く。多くの後輩たちにも慕われる。

母親と街頭写真

 昭和16年頃だという。赤井さんの母親の思い出を語る、一枚の写真がある。

母親と映画『二十四の瞳』(54) の大石先生

 二人は,当時の女子師範を出て地元の小学校に赴任していることなど、赤井さんのなかでは、イメージをダブらせていたことがわかる。

小説「二十四の瞳」(著・壺井栄)

 この小説を無声映画のように字幕だけで見せること、弁士のように字幕と語り、さらに「あわて床屋」の歌詞の字幕とリコーダーで歌ってみるということをやってみた。(映画『二十四の瞳』は優れたミュージカル映画だと思う。)

母親と映画『二十四の瞳』(54) の大石先生

 二人は,当時の女子師範を出て地元の小学校に赴任していることなど、赤井さんのなかでは、イメージをダブらせていたことがわかる。

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映画『風の中の牝鶏』(48) 監督・小津安二郎

 2000年8月11日に「横浜シネマ・ジャック」で見たときに、ウエブサイト「ネット・リュミエール」に書いたものの一部を朗読してもらっている。映像と語りで映画シーンが成り立つかの実験的試みでもある。映像は洗濯物などの小津イメージとリズムをねらってみた。

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最後の興行師・福寿祁久雄 73歳
"1935年(昭10)横浜市西区生まれ。10代から映画興行に関わり、映画館「関内アカデミー劇場」「シネマ・ジャック&ベティ」「横浜日劇」などで50年間支配人を務めたほか、自ら映画を企画し出演もしている。

玉音放送とラジオ

 一般的な感想は、「ガーガービービー」とうるさくて聞き取れなかったということだと思っていたのだが、10歳の福寿さんは、とてもよく聞こえたと話す。しかし、その内容は、まったくわからなかったという。赤井さんもわからなかったと話すが、どうも福寿さんの「わからない」という意味と違うようなのだ。

玉音放送とラジオ(2)

 12歳の赤井さんは、内容がわからないながらも、戦争が終わったという意味を周囲の大人たちの様子から読みとっているが、福寿さんは、よく聞こえたが、言葉の意味が理解できなかったと強く印象をづけられ、二歳上の、兄は、もっとわかったのにという思いがあり、さらに、なにがわからないのかわからない世代というところから、「特異な世代」「希少世代」「孤立な世代」と、みずからを呼んでいる。また、福寿さんは、「わからなかった」玉音放送からラジオ放送の内容が、戦後変化していくことに強い印象を持っていることを話し始めるのだが、これは、当時では珍しく感度のいいラジオを持っていた少年の理解力が、「ラジオ」とうまくシンクロを始めたことを意味してる。それは、まさに、10歳からの「希少な体験」となる。

宮澤賢治「雨ニモマケズ」

  「先生は、墨塗り教科書を使わずに、宮澤賢治の「雨ニモマケズ」から入ったんです。」
 福寿さんは、この詩に10歳のとき出会ったことが大きいと語る。そして、この映画にとっても、壺井栄の「二十四の瞳」と同じだけの意味をもつ。このことは福寿さんの10歳の体験としての意味が、玉音放送とラジオ、そして「雨ニモマケズ」と出会うことによって、まさに、決定的なものとなった。        宮澤賢治「雨ニモマケズ」「…ヒデリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ/ミンナニデクノボートヨバレ/ホメラレモセズ/サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」                                         



映画『私の青空・終戦63』を観て 皆さんから寄せられた感想(抜粋)

2009.10.31「横浜にぎわい座・のげシャーレ」


○バックミュージックの音色...心地良く感じられました。私自身の10歳、12歳の時は、どこで何を?とタイムスリップするチャンスを与えられたと思いました。(女性・40代)

○映画を見た老若男女も自分の心の中に青空を見たのではないか。(男性・60代)

○詩情豊かな素敵な作品だと思いました。中新田小学校の校庭の桜、....心に染みる夕焼けの鉄塔など、とても印象的でした。(男性・60代)

○青空、小学校の桜、お二人の淡々とした語り、そして音楽、なんとも良くマッチしていて、不思議な映画でした。(女性・40代)

○こころの奥に刻まれていた光景がふっと湧き出してきた。(女性・70代)

○もっと重い感じの映画を予想していましたが、予期に反して、静かに心にしみる映画でした。お二人の方の語り口も対照的で、とても自然でした。監督さんの手腕でしょうか。(女性・60代)

○ この映画の中に出てくる身近な風景がこんなに美しかったのかと再認識しました。
(女性・30代)

○...海老名の小学校の桜、...横浜市田谷の風景と、リコーダーの奏でる『春の日の花と輝く』などの曲も印象的でした。映画は、娘たちの世代にもそのときの想い感じたことが確かに伝わっています。貴重なお話をありがとうございました。(女性・30代) 

○この映画のタイトルは、静かに戦後の生活を思い起こさせてくれました。...この映画を観たとき、10歳と12歳で終戦を迎えた子どもの心に遺って忘れられない心象風景からメッセージをいただいたよう気がしました。それは、今、生きている人間にとって、「大切なもの」なのではないでしょうか。(女性・60代)

○思い出の映画を軸にインタビューだけで、二人の戦後の人生を浮かび上がらせた努力は拍手ですね。そして、とにかく、低予算で映画を作ろうという姿勢は最高です。しかも、映画はとても詩的にでできあがっています。(女性・80代)

○終戦の日を境に世の中と大人たちの態度が百八十度変わってしまって、多感な時期の少年たちが不信感を抱くのは当然、赤井さんが、その後の人生の所々でずっと〝待てよ〟と思うことにされたのは、立ち止まってご自分の頭で考えて、確認して、納得してから進むことに決められたからでしょう。横浜の少年だった福寿さんは、絵を描くことでかっての風景、失われた風景の再現を試みていらっしゃいましたね。玉音放送も鮮明に聞こえ、戦後はそのラジオから大きな影響を受け、その豊かな感性がお仕事に繋がっていったのですね。
〝雨ニモマケズ〟に出会ったのは、私が12歳の時でした。卒業を4ヶ月後に控えた悲しい転校ム新しい教室の黒板の上にその詩は掲げられました。卒業まで毎日〝雨ニモマケズ〟を眺めていました。〝雨ニモマケズ〟は、時代を超えて、様々な人の心に生き続けていくのですね。
(女性・40代)

○10歳や12歳の子供でない大人でもない少年たちがあの時代をどんな思いで暮らしていたか知る機会はありませんでした。大人よりも生々しい体験から遠く、けれども何もわからぬほど幼くもない。世の中が手の届かないところで動いている、一夜にして価値観が変わってしまう。何を信じたら良いのか? 少年たちにはそんな思いを持たずに、夢や希望を沢山持ち大人になることが楽しみであってほしいと母親として祖母として思います。(女性・60代)

○まさに青空と雲の映像が印象的でした。音楽ともども福間ワールドを感じましたね。人物の語る内容も深くて重いものを含んでいますが、多少観る方としては疲れたのも正直なところです。ただ映画を作る側が余計な意味づけをしていないのは一種さわやかでよかったです。
(男性・50代)


○ややもすると、パターン化した反戦映画に陥ったり、浮ついた戦争史観に流されたしがちなドキュメンタリーを超えて組み立てられている作品として、私は自然に受け入れられました。「終戦」にまつわる少年時代の追懐や。70歳を超えた老年期の心境を、おふたりの異なるキャラクターで語る〝味わい〟もまた格別で、静謐さを湛えた成熟した映画仕上がっているように思いました。ある意味では、映画製作に向ける〝華麗なる野心〟が福間監督の姿勢とうまくマッチングして、非常に洗練された平和希求のドキュメンタリーとなっています。(男性・70代)

○この映画は戦争の悲劇を語ることではない。今、静かに来し方を振り返り、当時を懐かしく回想しながら語り合う言葉は大袈裟でないほうが良い、騒々しくないほうがいい。映像を観る人々にしみじみ、しんみりした感慨を思いおこさせればよい。その点では、少し冗長に過ぎるかと思われた箇所が気になった以外、あの映画はあれでよかったのではないか。
(男性・70代)

直感的な危機意識なのだということが...

はじめ、福寿さんが、おっしゃった「今年の逃げ場のない暑さ」ということの真意が、いまひとつ謎のように引っかかっていたのですが、後段で、「(中途半端にしか)判らないまま、一夜にして変わってしまう体験」が語られ、その体験によって奥底深く刻み込まれた、直感的な危機意識なのだということが解き明かされていく、そんな重層的な構成になっていて、自分のなかではあそこで、どーんとクライマックスになりました。
 赤井さんのお話で、やはりお母さんへの思いと朴君の沢庵の話には、うたれました。感情移入をさせるような映画ではないのでしょうが、何度か目が熱くなりました。
 福寿さんの「雨ニモマケズ」を教えてくれた先生もそうですが、個々の人との出会いというものの持つ意味の大きさを改めて痛感しました。
 それから、映画のことが多く語られますね。もちろん福寿さんのお仕事の関係もあるわけですけど、色々な意味で、私にはよかった。理解を助けてくれたように、思います。
 「風の中の雌鶏」については、私は作品を観ていないのですが、小津的なものを踏まえることが、私たちがこれから前に進む(どう表現していいのかわからないのですが)には不可欠だという、非常に基本的なことの判りやすいサインでした。
 福間さんは、吉田喜重の小津再評価などについてかなり問題意識をもって書いてこられましたね。また、福間さんがとても大事にされている、深作欣二の戦後革命のイメージみたいなもの、今回のテーマのど真ん中に触れてくるものですよね。
(男性・60代)

映像と音楽、ナレーション...すばらしい出来の映画に...

92分が淡々と、しかし、徐々に熱を帯びていき、最後まで間延びすることなく進んでいく。この映画のチラシを見て、福寿さんと赤井さんの対談なのかと勝手に思っていたが、それぞれが監督を相手に語る形をとっていて、これはこの方がよかったと思う。単に戦争体験談を記録したというのではなく、「映画」がもう一つの軸になっていて、この二つが絶妙に絡まっていくことにより、全体に厚みが出来て、見応えのある映画に仕上がっている。この辺は、福間監督の味がうまくでているところだと思う。
 福寿さんと赤井さんが、とてもいい。そして、映像と音楽、ナレーション、字幕も無駄なく、自然な形で効果的に融合して、すばらしい出来の映画になっています。(男性・50代)

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福間雄三プロフィール
1951年(昭26)生まれ。高校時代から8ミリフイルムで短編映画を作る。作品に『朝・モチーフ・イメージ』67、『荒野』68、『赤い靴』76など(撮影中止した映画に『青空』80がある)。2002年にウェブサイト「ネット・リュミエール」を立ち上げ、主に横浜の映画館の特集上映(深作欣二、黒澤明からゴダールまで)などで見た作品の批評を掲載する(約450本)。また、2007年3月に設立した幻野映画事務所では、映画『岡山の娘』08の製作に関わるとともに、記録・編集を担当。2009年7月には映画『遺書』(短編23分)も完成。横浜を拠点に新たな映画づくりの展開を図る。