「女性徒・1936」Coment of 太宰治原作「女生徒・1936」

新たに寄せられた感想





こんなに静かな映画を初めてみました。リコーダーやピアノの音のみで進んでいく物語はとても静かで、ひとつひとつの言葉が体に響いていくようでした。この物語たちは、男性が書いたとは思えないほどの女性の複雑な心理が伝わってきます。「幸せだ」と思った次には「不幸だ」とまでコロコロと感情が変わり、その変わる感情で行動してしまう女性。男性には一生かけてもわからない女性特有のものだと思います。しかし、太宰治にはわかったのでしょう。「女生徒・1936」は原作に忠実に描かれており、太宰治の恐ろしさがいっそう伝わってきました。言葉を味わうことができる映画に出会えてよかったです。(文京学院大学・新津小霧)2013.11.23


待望の「女生徒1936」を観ることができて、そしてまさか監督にお目にかかれるとは思っていなかったので、とても嬉しかったです。

太宰の作品に登場する女性たちは、うつくしく、清潔で、清らかで、純粋で、純真で、善良な印象があります。
それをひとつひとつ言葉で説明するのは難しいのですが、主人公を演じた女優さんたちの目線に、たたずまいに、言葉に、声に、間にこれらの印象が現れていて、「わかる、わかる」と1人納得したり、うっとりため息をついたり、観ていて色々な思いで胸がいっぱいになりました。

美しいこと、正しいことを信じて行動に移すことは善いことと思われますが、それが度を超すと、他者の目には善いことではなく奇妙なもの、狂気としてうつってしまいます。
でもそれは世間や、世間が定めた「常識」というフィルタを通してしまうからなのであって・・・
映画の主人公たちのように自分の道をつきすすむと世間から孤立してしまうかもしれませんが、でも何を大切にしたいのか、と考えるとやっぱり自分の心であり、後悔することなく、自分が心から満足して幸せだと思えることです。

小説で読んだときはここまで気づけなかったのですが、4つの作品を映像で観て気づきました。
ひとつひとつ、全てのシーンが大切で、映画を観るというよりも、映画を読むという表現がわたしにはしっくりきます。

4人の主人公は年齢も環境も違いますが、通して観ると不思議とひとりの女性を追っているようにも思えてきます。皆、自分の信念を大切にしているからでしょうか・・・

最後の斜陽の言葉、「人間は革命と恋のために生まれてきたのだ」でなぜだか涙が出てきて、まわりに人がいなかったのなら私はボロボロ涙を流して泣いていたことと思います。
悲しいとか感動したとか、そういう言葉で表せる涙ではなくて、一晩考えてみてもどうしてあそこで泣けてきたのかわかりません。
でも私が心の奥に抱えているなにかにふれた言葉だったのだと思います。
映画の最後に、本当に本当にふさわしいぴったりな言葉でした。

観終わったあと、私も私の道を進もうとつよく思いました。
世間からするとスタンダードではないかもしれませんが、世間のスタンダードは私にとっての幸せではないのだから、自分の心に、信念に、正直になろうと思いました。

強さをいただけた映画でした。
そしてやっぱりわたしも、美しく生きたい、と思いました。

太宰の作品では「女生徒」と「斜陽」が好きでしたが、この映画を観て「きりぎりす」もお気に入りの作品になりました。

最後に・・・上映前に監督もおっしゃっていましたが、音楽も本当に素晴らしく、聞いていて心地よく耳に残るので、サントラを購入できたことは嬉しかったです。
私はヨガを教えているのですが、あの美しい音楽でヨガのクラスをできたら気持ちいいだろうなぁと考えております。

次回作も楽しみにお待ちしております。
素晴らしい映画を本当にありがとうございました。
観終わってからずっと、映画のことを思い出してあれこれ考えてばかりいます。
せっかくですのでしばらくは太宰の世界にひたって、毎日を送ろうと思います。
(深沢綾子)2013.11.24

 美しいと感じる言葉や音が聞こえると、身体の中に溜め込んだ錆を落としてもらっているような気持ちになります。そんなひとときに心洗われ、まるで生まれ変わったような気持ちになります。この映画を観る前と観終わった後と、自分の奥底に潜むなにかが違いました。暫く椅子に座っていただけなのに、私も月を見上げながら洗濯をする乙女になれたような気がしました。
 この「女生徒・1936」は今の私の精神に語りかける映画でした。ひっそりと生きたいと願う一方で、架空の世界を彷徨いつづけています。空想の待ち人や出会いに期待をしています。「燈籠」「女生徒」「きりぎりす」「待つ」の四つのお話には必ず男と女がありました。それは単純に性別での分類でなく、恋人や夫婦、親子や兄弟、また最後の「待つ」では姿は明らかになりませんでしたが、恐らく男か女かの人間を待ちわびていたのではないでしょうか。私の性別は女です。ですが、私は正直なところ自分が男なのか女なのか未だにわかりません。肉体が女であるのであれば精神も女のものとして形成させてゆくのか、今はそのような過程をまじまじと見つめています。
 映画の中で生きているさまざまな女たちは、とても美しかったです。滲み出る己の信念や執念をしっかりと引き連れ、逞しく生きていました。私は太宰治の文学を読み尽くしているわけではありませんが、太宰治が発する人間に対しての希望と絶望、男と女、死生観、そのような部分をこの映画を通して柔らかく触れることができたような気がしています。
 「美しく生きたいと思ひます。」「美しさ」とはなにか、「生きる」とはなにか、自分自身に問い合わせながら今の時代を生き抜いて行きたいと思いました。素朴で素敵な映画をありがとうございました。
(白梅学園大学・堂免沙樹子)2013.6.28


 全作品を通して、主人公の着物の柄と題名が出る際の背景の柄が同じであり、映像がより美しく見えました。字幕のみで語られる物語は、文字だけとはいえ背景の色や音楽と重なり合い自分自身で情景やその言葉の重さや意図を汲み取ることができたと思います。
 「燈籠」からは何気ない幸せ、「女生徒」からは思春期の葛藤、「きりぎりす」では傲慢に対する戒め、「待つ」では変わりたい自分と変われない自分、と自己解釈しました。
 所々の間や燈籠の叩かれるシーンの強調の意図を読み取ることはできませんでしたが、太宰治の世界をそのまま映像化されたような印象を受けました。少女自身が声に出して語る部分、心の中で思う部分、文字としてうつされる部分、切り替えしはどうしてそこだったのか、と疑問に思うこともありました。また別作品と分かっていても女優さんが同じな為に、成長した姿なのかと考えてしまいそうになりました。
 どの作品も言葉の一つ一つが印象に残っていますが、その中でも最も印象に残っているのは「きりぎりす」です。夫に当てて書いた手紙を燃やしてしまう場面が一番好きでした。あのまま何も知らず誰もいない家に帰ってくる夫のことを考えると、面白くもあります。なので、家を出ていく智子が楽しそうに見えてしまいました。
 映画の始まり方と終わり方がふわふわしていたので、その気持ちのまま作品を見ることができました。少しタイムスリップしたような、でも考え方は現代の人とあまり変わりないのかもしれないと思いました。(白梅学園大学・安藤実希)2013.6.23

劇場パンフレットから抜粋

銀幕の上でデュラスと太宰が出会う美しさ

 現代映画では、デジタル技術による撮影や編集の簡便化を背景に、思い切りのよい試みがなされるようになっている。そうした作家として沖島勲や福間健二といった名が思い浮かぶが、福間雄三監督の『女生徒・1936』もデジタル時代の異種映画といっていい。驚かされるのは、オフ・ヴォイスを大胆に多用することで映像と音声を独立させつつ、「声」を媒介にして、主人公の少女たちの意識を映像のなかに滲透させていることである。このような試みは、小説家のマルグリット・デュラスが、映像における美や力を失わずにいながら、音声トラックに別の次元を持ちこむことで「文学の映画」をつくろうとしたことを思いださせる。なかでも『女生徒・1936』と関係があるのは、『セザレ』『陰画の手』といった映像と音声が分岐した作品ではなく、『インディア・ソング』のように音声が映像の内容を語りながら、それが別の時間の層を成してたちあがってくる作品であろう。
 太宰治はデュラスのように、女性の独白形式を自在にあやつることができる稀有な小説家だった。映画『女生徒・1936』は、太宰の女性小説の中から「燈籠」「女生徒」「きりぎりす」「待つ」という戦前から戦中にかけての短編を映像化し、時代順に構成する。その連続性の中に浮上するのは、少女たちの繊細なセンサーに引っかかった時代の不穏さである。映画の内容は律儀なまでに原作に忠実なのだが、オフ・ヴォイスで少女の声を響きわたらせる手法を全編で使用しており、デュラスの映画と似た相貌をもっている。少女たちの意識の外にある安定した世界はデジタル映像で表象され、少女たちの不安定な意識の流れはオフ・ヴォイスによって、映像との間にかすかな齟齬の不協和音を奏でていくのだ。
「私もまた、眼帯のために、うつうつ気が鬱して、待合室の窓からそとの椎の若葉を眺めてみても、椎の若葉がひどい陽炎に包まれてめらめら青く燃え上がっているように見え、外界のものがすべて、遠いお伽噺の国の中にあるように思われ、水野さんのお顔が、あんなにこの世のものならず美しく貴く感じられたのも、きっと、あの、私の眼帯の魔法が手伝っていたと存じます」(「燈籠」太宰治著)。
苦学生への同情心から、男物の海水パンツを万引きする「私」の意識の流れを、「燈籠」という短編小説から映画の場面へと起こすのは難しい。デュラスは小説家としてその愚を知っており、映像ではあくまでも純粋に映像的な美を探求し、かわりに映像と音声の関係において様々な実験をおこなった。福間雄三はいわゆる「文学の映画化」を避けるため、映像と少女たちの内面の声との間に裂け目をつくり、余白をつくることで、鑑賞者が自分の感受性に訴える何かを見いだすための自由を確保している。そして意外なことに、この映画の観賞後の感覚は、太宰文学の読後感に似ているのだ。太宰の小説を映像化するのは容易ではない。いわば『女生徒・1936』は原作を忠実になぞることで、方法としてはアヴァンギャルドの冒険へと近づくという、一つの極北を私たちに提示しているのではないか。
金子遊(映像作家・批評家)

試写会等での感想




「燈籠」「女生徒」「きりぎりす」「待つ」の4作を二人の新人女優が丁寧に演じて新鮮さを感じた。太宰作品の言葉の意味が「コトン」と胸に落ちてくる。字幕が付く。ゆっくりと言葉が流れて最後の言葉が間をおいて静かに消えていく。その数秒に福間監督のこだわりを感じた。(渡辺絹子・JAZZ喫茶 映画館)

「美しく生きたいと思ひます。」というのは、『女生徒』の中に出てくる1行ですが、この世の中で美しく生きていくということは、何とも孤独で、困難な生き方であることか。しかし、『女生徒』だけでなく、この映画の中の4作品全ての女性たちは、不安を抱きながらも、毅然として、美しく生きていくことを決意しています。4作品を1本の映画にしたのは正解だったと思います。
簡潔で、透明感のある美しい映像は、こうした若い女性の独白というこの作品の特徴と見事に調和していて、さらには、明るく軽やかで、また素朴でもある音楽がとても効果的で、映画全体を瑞々しくしていると同時に、力みはないのに強い意思が感じられる世界を創り出しています。
それにしても女性に扮したときの太宰は、気のせいかとても饒舌で、生き生きしているように感じます。(藤井信雄・RSF)

80年も前に放たれて太宰の言葉の矢が、現代の女生徒たちの胸を射る。
君は息切れしていないか?
君は飛びつづけていられるか?
そして好きな人に正直に好きだときっぱりと云えるか?
しかも何より生きている確信がコトンと自分の中で落ちる音を聞いたことがあるか?
福間雄三監督の『女生徒・1936』は、そんな魂の息吹の落ちるコトンという音を正確に再現した。1時間45分。太宰のキラキラした言葉を浴びながら、男も女も昔々に忘れてきた、あの懐かしくて恥ずかしいこころの襞を思い出すだろう。生きてしまうことは、恥を毒矢に変える力をもつことでもある。
太宰治という毒の塗られた矢は、この『女生徒・1936』という映画によって、生きている確信へと変色し、観た者の心に確実に突き刺さるのである。(田中じゅうこう・映画監督)

『女生徒・1936』、ボク、けっこう好きです。「燈籠」「女生徒」「きりぎりす」...よくまあ、こんなにまっすぐやると戸惑いながらも、ひさびさに太宰はいいなーと受け止める時間は楽しかった。太宰は一人称の短編は音読、よみながらセリフのように書いたそうですね。ちょっとムリしてかっこよく言わせてもらうと、作品自体が、文学のなかの肉体性を捉えなおす(ための)テキストになっていると思いました!(若木康輔・ライター)


・内容については、4つの物語の繋がりもとてもスムーズに感じました。セリフも聴き取り易く、字幕の入れ方も独特だと思います。場面毎のロケ場所もとても気に入りました。良い雰囲気の場所がよく見つかったなと感心しました。(50代男性)


・太宰の短篇を作品が書かれた時代の中に読み解くことで、<あの>時代をあぶりだそうという(さらに太宰作品をも読み直すことにもなる)試みは非常に面白いものでした。(小楠恒雄/ヨコスカ・シネクラブ)


・美しい作品でとても感動しました。たくさんの女性に観て頂きたいなと感じました。(20代女性)


・素晴らしい作品で、いつの間にか、ひとりの観客として見入っていました。(20代女性)


・太宰治の素晴らしい文章をそのまま用い、シーンの色合いや音楽・空気感が本当に素敵で、この二人のヒロインも透明感と凛とした感じが秀逸、太宰の作品を改めてじっくり読んでみたくなりました。(島田洋子・舞台女優)


・簡潔で、清々しくて、美しい映像は、若い女性の複雑で難しい心のうちを語らせる小説の世界を表現するのに、とてもバランスがよく、いい映画になっているなと思います。太宰の小説を読んで思い描いていた感じと、違和感なしで見ることができました。限られた予算の中で、よくここまで小説の世界を忠実に映画化できたものだと驚いています。美しい映像のほかにこの映画で印象深く感じたのは、音楽と字幕の効果です。この映画は、せりふがほとんど一人語りというか独白で、あとはナレーション(朗読)が多いので、単調になったり、重く沈んだ感じで推移してしまいがちなのを、音楽や字幕が映画にメリハリをつけ、いい効果を出していると思います。見ている者も気分転換ができます。特にリコーダーの音の明るさ、強さ、ストレートな響きが印象的で、「女生徒」などでは大きな役割を果たしていると思います。(50代男性)


・世界観がしっかりしていて近年にない傑作です。(60代女性)


・しずかで綺麗な、とてもいい作品でした。(60代男性)